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日本ジャズ界のレジェンド・渡辺貞夫さんの家族について、「奥さんはどんな人?」「子供はいる?」と気になっている方は多いのではないでしょうか。
渡辺貞夫さんの家族は、妻・貢子さん、娘・渡辺眞子さんの3人家族で、音楽一家に生まれた兄弟にも注目が集まっています。
この記事では、渡辺貞夫さんの家族構成から妻との馴れ初め、娘の活動、兄弟のエピソード、そして病気を乗り越えた現在までを詳しく解説します。
目次
渡辺貞夫の家族構成|妻・娘・兄弟を一覧で紹介
渡辺貞夫さんの家族について検索すると、「奥さん」「娘」「兄弟」など多くのキーワードが出てきます。ここでは渡辺貞夫さんを取り巻く家族の全体像を紹介します。
- 妻・貢子とジャズ喫茶での出会い
- 子供は娘の渡辺眞子が1人
- 娘は作家で事務所代表も兼務
- 実家は宇都宮の5人兄弟
妻・貢子とジャズ喫茶での出会い
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渡辺貞夫さんは1957年、24歳の時に貢子(みつこ)さんと結婚しています。
2人の出会いの場所は、有楽町の駅前にあったジャズ喫茶「コーヒーコンボ」でした。
渡辺貞夫さんは仕事の前後によくこの店に通っていたそうですが、ある日、かわいい女の子が店の手伝いに来ているのに気づきました。それが貢子さんでした。通い続けるうちに親しくなり、やがて交際がスタートして結婚に至ったそうです。
実はこの時、貢子さんはまだ高校生でした。偶然お店の前で転んでしまい、おかみさんが手当てをしてくれたことがきっかけでお店を手伝うようになったのだとか。渡辺貞夫さんは、知り合った当時まさか高校生だとは思わなかったそうです。
渡辺貞夫さんは妻について「人形町の生まれで、生粋の江戸っ子。気っ風がいいというかね。男気があるというか。私が持っていないところを全部持っている。そこに惹かれましたね」と語っています。
さらに結婚のきっかけについても「少しでもあやかりたいと思って結婚してもらいました」とユーモアたっぷりに明かしており、妻への深い敬意と愛情がうかがえます。
結婚翌年の1958年には娘の眞子さんが誕生し、渡辺貞夫さんは家庭を持ちながら音楽活動を続けていくことになります。
子供は娘の渡辺眞子が1人
渡辺貞夫さんと妻・貢子さんの間に生まれた子供は、1958年に誕生した娘の渡辺眞子(わたなべ まこ)さん1人だけです。
「渡辺貞夫 息子」と検索される方もいますが、息子がいるという情報は確認されていません。
渡辺貞夫さんが音楽一家に生まれ育ったことから、「息子も音楽家なのでは?」と想像する方がいるようです。実際には弟がジャズ・ドラマーの渡辺文男さん、妹がジャズ・ヴォーカリストのチコ本田さんという音楽一家ですが、こうした兄弟の情報と混同されている可能性があります。
渡辺貞夫さんの子供は娘の眞子さんのみであり、息子がいるという事実はありません。
眞子さんは父親とは異なるジャンルで才能を発揮し、作家として幅広い活動を展開しています。音楽家の父と文筆家の娘という組み合わせは、クリエイティブな血筋が別の形で開花した好例と言えるかもしれません。
娘は作家で事務所代表も兼務
渡辺貞夫さんの唯一の子供である渡辺眞子さんは、作家活動と父のマネジメントという2つの顔を持っています。
ノンフィクション作家としての活動
東京女学館短期大学を卒業した渡辺眞子さんは、ノンフィクション作家、エッセイスト、絵本作家として幅広い執筆活動を行ってきました。
著書には「幸福な犬 世界一幸せな飼い主になる方法」「捨て犬を救う街」「犬と、いのち」などがあり、人と動物の福祉や共生をテーマにした作品を数多く手がけています。
絵本作家としても「ハルの日」などの作品を発表しており、動物の殺処分問題を扱った同作は読者の心に深く響く作品として評価されています。
父・渡辺貞夫さんが音楽という芸術の世界で生きてきたのに対し、娘の眞子さんは文学・執筆という別の表現手段を選びました。ジャンルは違えど、クリエイティブな活動に携わっているという点では、親子に共通するものがあるのかもしれません。
父のマネジメント会社代表として
渡辺眞子さんは作家活動だけでなく、父・渡辺貞夫さんのマネジメント会社「エムアンドエムスタジオ」の代表も務めています。
同社は1980年に設立された音楽企画制作・アーティストマネジメント会社で、渡辺貞夫さんの全国ツアーやアルバム制作などの活動を支えています。
渡辺貞夫さん自身も「今もう全部娘に面倒見てもらってます」と語っており、眞子さんは日常生活だけでなく、音楽活動の裏方としても父を全面的にサポートしていることが分かります。
作家として自らの表現活動を続けながら、同時に92歳の父の音楽人生を支え続ける眞子さんの存在は、渡辺貞夫さんにとってかけがえのないものでしょう。
実家は宇都宮の5人兄弟
渡辺貞夫さんは1933年、栃木県宇都宮市に5人兄弟の二男として生まれました。
実家は小さな電気会社を営んでいましたが、音楽との関わりは父親の影響が大きかったようです。渡辺貞夫さんの父親はかつて薩摩琵琶の演奏家で、家の中にはつねに音楽がある環境でした。
お正月には父が都都逸(どどいつ)を唸るなど、幼い頃から自然に音楽に親しんでいたそうです。
そして渡辺貞夫さんの弟は、ジャズ・ドラマーとして活躍した渡辺文男さんです。兄弟そろってジャズの世界で名を馳せたことになります。さらに妹のチコ本田さんも、ジャズ・ヴォーカリストとして活動していました。
父は薩摩琵琶師、弟はジャズ・ドラマー、妹はジャズ・ヴォーカリストという、まさに音楽一家と呼ぶにふさわしい家系です。
一方で、渡辺貞夫さんの兄・渡辺登幾雄さんは殺人事件の被害者となるという痛ましい出来事もありました。華やかな音楽一家の影には、このような悲しい歴史も刻まれています。
こうした音楽に満ちた環境で育ったことが、のちに「世界のナベサダ」と呼ばれる渡辺貞夫さんの原点になったことは間違いないでしょう。
渡辺貞夫の家族が支えた音楽人生|留学・病気を乗り越えた軌跡
渡辺貞夫さんの音楽人生を語る上で欠かせないのが、家族の支えです。ここでは妻子を残しての留学から、妻の急逝、病気の克服、そして現在の暮らしまでを紹介します。
- 妻子を残し29歳で渡米した覚悟
- 妻は2010年に急逝していた
- 病気を乗り越えた不屈の音楽魂
- 娘と2人暮らしの92歳の現在
- 渡辺貞夫の家族まとめ
妻子を残し29歳で渡米した覚悟
渡辺貞夫さんの音楽人生における大きな転機は、1962年のアメリカ留学でした。当時29歳の渡辺貞夫さんには、すでに妻の貢子さんと、4歳になる娘の眞子さんがいました。
秋吉敏子の推薦でバークリーへ
留学のきっかけは、ジャズピアニストの秋吉敏子さんの存在でした。
渡辺貞夫さんは19歳の時に秋吉敏子さんに声をかけられ、「コージー・カルテット」に参加していました。その後アメリカで活躍するようになった秋吉敏子さんが凱旋公演で日本に帰ってきた際、「奨学金をとりつけてあげるから、ボストンのバークリー音楽院に留学なさい」と勧めてくれたのです。
妻の貢子さんは「行っといで」と快く送り出してくれたそうです。
当時は外貨の持ち出しが200ドルまでに制限されていた時代です。家族を日本に残してのアメリカ行きは、大きな決断だったはずです。
10ヶ月で妻子を呼び寄せた行動力
渡辺貞夫さんはバークリー音楽院で学びながら、現地で自ら演奏の仕事を見つけて生計を立てていました。
驚くべきことに、わずか10ヶ月ほどで1000ドルを貯め、日本から妻子を呼び寄せることに成功しています。
渡辺貞夫さんは当時を振り返り「これなら呼べるんじゃないかって、呼びました」と語っています。
アメリカに渡ってきた貢子さんは、持ち前の行動力を発揮しました。教師や苦学する同級生たちをアパートに呼んで料理を振る舞っていたそうです。渡辺貞夫さんは「僕は食いぶち稼ぎでもって大変でしたよ」と笑いながら当時を振り返っています。
日本では耳で覚えて独学で演奏してきた渡辺貞夫さんにとって、バークリーで合理的なジャズ理論が確立されていることを知った衝撃は計り知れなかったと語っています。この留学がなければ、のちの「カリフォルニア・シャワー」の大ヒットも、世界的なジャズ奏者としての地位も生まれなかったかもしれません。
妻は2010年に急逝していた
渡辺貞夫さんを長年支え続けてきた妻・貢子さんは、2010年に急逝されています。
渡辺貞夫さんは2018年にテレビ番組「徹子の部屋」に出演した際、妻の最期について言葉を残しています。
「バタッとうつぶせになって、そのまま逝っちゃったみたいなんです。あっけなかった」と語った渡辺貞夫さんの言葉からは、突然の別れに対する驚きと寂しさがにじんでいます。
貢子さんは非常に行動的な女性だったようです。渡辺貞夫さんが演奏旅行に出ると、貢子さんも独自に旅に出かけることがあり、「ばったりサンフランシスコの街角で会っちゃったりね」というエピソードが残っています。
渡辺貞夫さんは「彼女は非常に行動的な女性でした。けっこう二人では旅もしました」とも振り返っており、夫婦でそれぞれ自由に行動しながらも、深い信頼と愛情で結ばれていた様子がうかがえます。
渡辺貞夫さんは芸術祭大賞や紫綬褒章を授与された際にも、必ず「家族の支えがあったからこそ今の自分がある」と家族への感謝の気持ちを語ってきました。1957年の結婚から2010年の急逝まで、半世紀以上にわたって渡辺貞夫さんの音楽人生を支え続けた貢子さんの存在は、かけがえのないものだったのでしょう。
病気を乗り越えた不屈の音楽魂
渡辺貞夫さんの音楽人生は、いくつもの病気との闘いでもありました。
最初の大きな試練は、48歳頃に襲ったC型肝炎です。ニューヨークでの仕事を終えてケニアに旅行中に体調を崩し、帰国した途端に立っていられなくなって入院しました。
当時の主治医からは「あなたは美味しいものを食べてのんびり余生を過ごしてください」と人生が終わるようなことを言われたそうです。しかし渡辺貞夫さんはお構いなしに、入院中も曲を書き続けていました。
約5ヶ月の療養生活を経て復帰した渡辺貞夫さんは、その後も精力的に活動を続けます。
そして90歳の時には狭心症の手術を受けることになり、人生で初めて公演をキャンセルするという事態になりました。さらに肝臓がんや胃がん、帯状疱疹なども経験しています。
渡辺貞夫さんは自身の体について「全身のあちこちが病気になり、何事もなく残っているのは頭くらいです」と笑い飛ばしています。
数々の病気を乗り越えられた背景には、医師の友人に恵まれたことに加え、娘の眞子さんによる日常的なサポートがあったことは想像に難くありません。家族の支えがあってこそ、渡辺貞夫さんは音楽に集中し続けることができたのです。
娘と2人暮らしの92歳の現在
渡辺貞夫さんは現在、娘の渡辺眞子さんと2人で暮らしています。
2010年に妻・貢子さんが急逝して以降、眞子さんが父の暮らしと仕事の両方を支える存在となりました。
渡辺貞夫さんのライフスタイルは独特で、携帯電話は持たず「楽器とマネークリップ持ってるだけ」だそうです。自宅でも電話に出ないといい、「本当に好き勝手にやってます」と語っています。
こうした自由な暮らしが成り立つのも、娘の眞子さんがマネジメント会社の代表として仕事面を取り仕切り、日常生活も全面的にサポートしているからこそでしょう。
2024年にはアルバム「PEACE」、2025年には「HOPE FOR TOMORROW」をリリースするなど、92歳を迎えてもなお創作意欲は衰えていません。2026年には音楽活動75周年を迎え、全国ツアーも予定されています。
突然の別れを経験した父と娘が、互いに支え合いながら暮らしている姿は、家族の絆の強さを感じさせます。
渡辺貞夫の家族まとめ
- 妻・貢子さんとはジャズ喫茶「コーヒーコンボ」で出会い、1957年に結婚
- 子供は1958年生まれの娘・渡辺眞子さんが1人で、息子はいない
- 娘の眞子さんはノンフィクション作家であり、マネジメント会社「エムアンドエムスタジオ」の代表も務める
- 実家は宇都宮で5人兄弟の二男として生まれ、父は薩摩琵琶師という音楽一家
- 弟はジャズ・ドラマーの渡辺文男さん、妹はジャズ・ヴォーカリストのチコ本田さん
- 29歳で妻子を残してバークリー音楽院に留学し、10ヶ月で妻子を呼び寄せた
- 妻・貢子さんは2010年に急逝、以降は娘と2人暮らし
- C型肝炎や狭心症など数々の病気を乗り越え、92歳で現役を続けている
渡辺貞夫さんの音楽人生は、家族の深い愛情と支えによって成り立っています。妻・貢子さんの内助の功、娘・眞子さんの献身的なサポート、そして音楽一家という恵まれた環境が、「世界のナベサダ」を育て上げたのです。
