記事内で紹介する商品を購入することで、当サイトに売り上げの一部が還元されることがあります。
鹿賀丈史さんの若い頃は、どんな少年時代を過ごし、どうやって俳優の道に入ったのでしょうか。ミュージカル『レ・ミゼラブル』やテレビ番組『料理の鉄人』で広く知られる鹿賀さんですが、そこへ至るまでの歩みが気になる方も多いと思います。
鹿賀丈史さんは金沢の少年合唱団で歌い、音大を目指す浪人中に劇団四季へ入り、入団2年目の1973年に『ジーザス・クライスト・スーパースター』の主役でデビューしました。
1980年に劇団四季を退団してからは映画『野獣死すべし』でスクリーンデビューし、日本アカデミー賞の優秀助演男優賞を3度受けています。
この記事では、本人の発言や公式サイト、報道をもとに、少年時代から映画・テレビで評価を固めるまでの若い頃の歩みを順にたどります。
目次
鹿賀丈史の若い頃|金沢の少年時代から劇団四季の主役まで
- 若い頃の歩みを年表で確認
- 少年合唱団で歌った金沢時代
- 音大浪人から劇団四季入団へ
- 入団2年目でジーザス役に
- 四季時代の舞台と意外な隣人
まずは、生まれ育った金沢での少年時代から、劇団四季で主役をつかむまでの歩みを見ていきます。
若い頃の歩みを年表で確認
鹿賀丈史さんは1950年10月12日、石川県金沢市の生まれです。公式サイトのプロフィールには、血液型はO型、身長は180cmと書かれています。
若い頃の主な出来事を、先に年表で一覧にしておきます。
| 少年時代 | 金沢の少年合唱団でソプラノ、高校では合唱部でバリトン |
| 浪人時代 | 音大を目指して上京し、劇団四季の入団試験を受ける |
| 1972年 | 劇団四季に入団 |
| 1973年 | 入団2年目で『ジーザス・クライスト・スーパースター』の主役を演じる |
| 1980年 | 劇団四季を退団し、映画『野獣死すべし』でスクリーンデビュー |
| 1981年 | 映画『悪霊島』で金田一耕助を演じる |
| 1983年・1985年・1987年 | 『疑惑』『麻雀放浪記』『キャバレー』で日本アカデミー賞の優秀助演男優賞 |
| 1987年 | 『レ・ミゼラブル』でジャン・バルジャンとジャベールを演じる |
| 1993年 | 『料理の鉄人』で美食アカデミーの主宰を務める |
少年時代から映画デビュー、テレビでの活躍まで、流れがひと目で分かります。ここからは、それぞれの時期を本人の言葉も交えて詳しく見ていきます。
少年合唱団で歌った金沢時代
金沢で育った鹿賀さんにとって、歌は少年時代から身近なものでした。2025年9月に公開された『婦人公論.jp』のインタビューでは、「金沢にいた頃、少年合唱団に入っていて、高校の時には合唱部で歌ってました」と話しています。同じ記事は、少年時代の鹿賀さんを「美しいボーイソプラノ」だったと紹介しています。
声の変化も、本人が具体的に振り返っています。「中学1年まで少年合唱団にいてソプラノだったのに、声がちょっと出にくくなってきて、2年たって高校の合唱部に入った時はもうバリトンでした」。ソプラノの少年は、高校に入る頃には低い声の持ち主になっていたのです。
体格の変化も大きなものでした。鹿賀さんは「僕は成長が遅くて、高校に入った時は160センチだったのに、卒業する時には178センチだったんですよ」と語っています。
高校の3年間で、身長は160センチから178センチへと一気に伸びました。
のちにミュージカルの主役を務めることになる歌声と体格は、この金沢時代に育まれたといえそうです。
音大浪人から劇団四季入団へ
高校を出た鹿賀さんは、音楽大学への進学を目指していました。『婦人公論.jp』によると、音楽大学に行くために上京し、浪人中に劇団四季の研究所を受けてみることにしたそうです。同記事の見出しには、入団試験の実技でピアノ伴奏を断り、ギターの弾き語りをしたと紹介されています。
劇団四季への入団は1972年です。NHKアーカイブスの人物紹介にも、1972年に劇団四季へ入団したと書かれています。
のちに主役を演じる『ジーザス~』との出会いについて、鹿賀さんは2013年のインタビューでこう振り返っています。「初めて『ジーザス~』のLPレコードを聴いて、あまりの素晴らしさに総毛立ちました」。さらに「それまでクラシック音楽を勉強していましたが、あの衝撃ってなかったですね」とも話しています。
劇団四季の代表だった浅利慶太さんがつけたのが、「鹿賀丈史」という芸名です。『婦人公論.jp』によると、出身地・金沢の加賀にちなんで「鹿賀」、四季の名優・日下武史さんにあやかって「丈史」としたそうです。
「鹿」の字には、「鹿のように俊敏に、澄んだ目をしていろ」という思いが込められていました。
鹿賀さんは2018年、浅利さんが亡くなった際の会見でこの思いを明かしました。あわせて「浅利先生がいなかったら僕はいない」と、恩師への感謝を口にしています。
入団2年目でジーザス役に
入団2年目の1973年、鹿賀さんは『ジーザス・クライスト・スーパースター』で主役のジーザスを演じ、デビューを飾りました。初演時の題名は『イエス・キリスト=スーパースター』で、公式サイトの舞台歴でも、初舞台は1973年の同作、会場は中野サンプラザホールとなっています。
NHKアーカイブスの人物紹介は、この舞台を「主演デビューし、人気を博す」と記しています。
客席の様子については、2017年のインタビューで次のように話しています。「中野サンプラザの落とし公演で最初はガラガラだったのが、(口コミで)千穐楽の頃には立ち見が出ていました」。
鹿賀さん自身、この初舞台を「いい作品でデビューできたな、本当にラッキーだったなと思いますね」と振り返っています。
この作品への熱量は、演出側にもありました。デイリースポーツによると、浅利慶太さんは音源のLP盤を「すり減るほど聴いて勉強」していたそうです。鹿賀さんは「それだけ、なんといいますか、一つの作品にかける情熱が若いころからあった」と、2018年の会見で振り返っています。
公式サイトの舞台歴には、『ジーザス・クライスト・スーパースター』が1976年、1977年、1979年にも並んでいます。デビュー作は、その後も繰り返し演じる代表作になっていきました。
共演者との出会いも、このジーザスのオーディションでした。のちに『ラ・カージュ・オ・フォール』などで共演する市村正親さんについて、鹿賀さんは「当時の彼は独特のオーラがあって、美少年だったんですよ」と語っています。
四季時代の舞台と意外な隣人
公式サイトの舞台歴には、劇団四季の在団中の作品として、1973年から1979年までの舞台が並びます。『ウエストサイド物語』『ヴェニスの商人』『カッコーの巣をこえて』『リトル・ナイト・ミュージック』などが続き、1974年の『ウエストサイド物語』は日生劇場のあと23都市と39都市の地方公演が記されています。1979年の『ジーザス・クライスト・スーパースター』にも48都市の公演があり、各地で公演を重ねていたことが分かります。
1974年と1975年には、日生劇場の『越路吹雪ドラマチックリサイタル』も載っています。日生劇場で開かれた越路吹雪さんのリサイタルは、鹿賀さんに芸名をつけた浅利さんが演出を担当していました。鹿賀さんもその舞台に出演していたことが、公式サイトの記録から分かります。
この頃の暮らしぶりが分かる話もあります。タモリさんがゲスト出演した2025年12月26日放送の『徹子の部屋』では、鹿賀さんの出演回の映像が流れ、劇団四季時代に東京・高円寺で隣の部屋に住んでいたのがタモリさんだったという話が紹介されました。
劇団四季時代の鹿賀さんが暮らした高円寺の隣の部屋には、タモリさんが住んでいました。
鹿賀さん宛てに届いたファンからのケーキの差し入れを、タモリさんが間違えて持ち帰って食べてしまったという出来事です。鹿賀さんは「あの頃タモリさん、いろんな言葉でしゃべるのが芸でしたので。そういうのがちょっと漏れ聞こえたりなんかして。まさかタモリさんだとは思いませんでした」と振り返っています。
タモリさん本人も「この事件はよく覚えてます」と笑い、開けてみた手紙に「舞台お疲れさまでした」と書かれていて、勘違いに気づいたと話しました。
鹿賀丈史の若い頃の出演作|映画デビューから日本アカデミー賞まで
- 退団と「3年間は舞台に出るな」
- 野獣死すべしで映画デビュー
- 悪霊島と日本アカデミー賞3度
- テレビで広がった活躍の場
- 舞台復帰と役柄の広がり
- 鹿賀丈史の若い頃まとめ
ここからは、劇団四季を辞めたあとに広がった映画・テレビ・舞台での歩みを、出演作ごとに見ていきます。
退団と「3年間は舞台に出るな」
鹿賀さんが劇団四季を退団したのは1980年です。『婦人公論.jp』のインタビューによると、浅利さんに辞めたいと伝えたのは春先のことで、その秋には、ジロドゥの『オンディーヌ』で三田和代さんと組み、鹿賀さんがハンスを演じる予定だったそうです。
退団を考えた背景には、映画への関心がありました。当時は黒澤明監督の『影武者』のオーディションが行われていた時期で、鹿賀さんは「映画のほうも受けてみたいので『オンディーヌ』はできません」と伝えたといいます。
浅利さんからは「いや、受けりゃいいじゃないか」と言われたものの、鹿賀さんの気持ちは「やっぱり辞めます」で変わりませんでした。結局、『影武者』のオーディションには行けなかったそうです。
1980年に劇団四季を退団した鹿賀さんは、映像の世界に活動の拠点を移しました。
退団のとき、浅利さんからは「3年間は舞台に出るな」と言われたといいます。実際、公式サイトの舞台歴では、1979年の次に載っている舞台は1986年の『トーチソング・トリロジー』です。映画とテレビドラマの仕事に打ち込む期間が、数年続いたことになります。
退団したあとも、浅利さんとの縁は切れませんでした。鹿賀さんが『マクベス』を演じることになっていた2000年、銀座で偶然会った浅利さんから、後日手紙が届いたといいます。手紙には「この間は酒を飲んで、きついことも言ったけど、ごめん」と書かれていたと、鹿賀さんは2018年の会見で涙ながらに明かしました。
野獣死すべしで映画デビュー
劇団四季を辞めた1980年、鹿賀さんは映画『野獣死すべし』でスクリーンデビューしました。大藪春彦さん原作、村川透監督、松田優作さん主演の角川映画で、公開は1980年10月4日です。鹿賀さんは、松田さん演じる主人公・伊達邦彦の相棒にあたる真田徹夫を演じました。
物語は、通信社のカメラマンとして世界各地の戦場を取材した伊達が、相棒と銀行を襲撃し、殺人を重ねていくハードボイルド作品です。舞台で歌い上げる主役から一転して、鹿賀さんは犯罪に加わる側の人物として映画のスクリーンに登場しました。
日本アカデミー賞の公式サイトは、鹿賀さんが劇団四季時代に舞台で一躍脚光を浴び、1980年に『野獣死すべし』でスクリーンデビューしたと記しています。
映画デビュー当時の鹿賀さんは、「野性味溢れる風貌と重厚な演技」で注目を集めました。
映像の仕事が自分に与えたものについて、鹿賀さんは2017年のインタビューで「映像をやったことで、僕はそれまでにはないものも発するようになっていた」という実感を語っています。劇団四季で培った舞台の力に、映画やドラマの現場で新たな持ち味が加わっていったことがうかがえます。
この時期は、歌手としての活動もありました。公式サイトのCD一覧には、1980年のアルバム『ひとりぼっちのシアター』と、1981年のシングル『ハーバーライト』(いずれもビクター)が載っています。
悪霊島と日本アカデミー賞3度
1981年には、横溝正史さん原作の映画『悪霊島』で名探偵・金田一耕助を演じました。篠田正浩監督の作品で、瀬戸内海の島で起きる連続殺人事件を追う物語です。公開は1981年10月3日でした。
映画の助演でも評価が続きます。日本アカデミー賞の公式サイトには、鹿賀さんの優秀助演男優賞の講評が3回分載っています。
1983年の第6回は『疑惑』です。公式サイトは「ひたすら軽薄な日和見主義のチンピラに徹して、舞台仕込みの達者なところを見せた」と評価しました。
1985年の第8回は『麻雀放浪記』のドサ健役です。「主役に匹敵するほどの強烈なインパクトを、観客の心に刻みつけた」と講評されています。
1987年の第10回は『キャバレー』です。「冷酷で筋金入りのヤクザに扮し、過去の傷を背負い、現実をクールに直視する男をドラマチックに演じた」と紹介されました。
3作品の講評を並べると、軽薄なチンピラ、勝負の世界に生きる一匹狼、冷酷なヤクザと、役柄の幅が広いことが分かります。『疑惑』と『麻雀放浪記』の講評には「舞台仕込み」「舞台出身」という言葉もあり、劇団四季で鍛えた演技力が映画でも評価されたことが伝わります。
テレビで広がった活躍の場
テレビドラマへの出演は、劇団四季の在団中から始まっています。公式サイトのテレビ出演歴では、1978年にNHK大河ドラマ『黄金の日日』とTBS『三男三女婿一匹』が並び、1980年にはTBS『天皇の料理番』、1981年にはTBS『Gメン’75』とNHK『本日も晴天なり』が続きます。
1980年代には、1982年のテレビ朝日『家族ゲーム』、1984年の同局『私鉄沿線97分署』、1987年の日本テレビ『ジャングル』なども、公式サイトの出演歴に並びます。
大河ドラマには、1983年の『徳川家康』、1990年の『翔ぶが如く』にも出演しました。『翔ぶが如く』で演じたのは大久保利通で、鹿賀さん自身がNHKアーカイブスのインタビューで「『翔ぶが如く』で大久保利通を演じて以来」と触れています。
1993年には、フジテレビの『振り返れば奴がいる』と『料理の鉄人』に出演しました。『料理の鉄人』は1993年から1999年まで続いた番組で、鹿賀さんは「美食アカデミー」の主宰を務めました。
『料理の鉄人』は「私の記憶が確かならば…」の名ゼリフで一世を風靡した番組で、その美食アカデミーの主宰が鹿賀さんでした。
1996年には『ポンキッキーズ』にカガマルとカガドルとして出演するなど、子供向けの番組にも顔を出しました。
舞台復帰と役柄の広がり
劇団四季を離れてからの舞台復帰は、1986年の『トーチソング・トリロジー』(パルコ劇場)でした。鹿賀さんは、この面白い戯曲との出会いが舞台に戻るきっかけだったと語っています。
翌1987年には、帝国劇場の『レ・ミゼラブル』に出演し、ジャン・バルジャンとジャベールを演じました。公式サイトの舞台歴では、ジャン・バルジャン役の出演が2001年まで並びます。
2013年のインタビューで鹿賀さんは、「劇団四季を退団してから本格的に舞台に戻って出演したのがこの『レ・ミゼラブル』で、それからいろいろな舞台をするようになった。そういう意味で、僕にとってターニングポイントになったなと思います」と語りました。二役についても、「ジャン・バルジャンをやって翌日はジャベール、という日々は役者として面白い体験でした」と振り返っています。
日本アカデミー賞の講評に並ぶのは、軽薄なチンピラや冷酷なヤクザなど、影のある役でした。一方で2017年のインタビューでは、「私はどちらかというとシリアス系の作品に出演している印象が強いかもしれませんが」と前置きして、ミュージカル・コメディの『ラ・カージュ・オ・フォール』について話しています。2008年のジョルジュ役以降、再演を重ねた作品です。
この作品について鹿賀さんは、「公演の度にスタンディングオベーションで、お客様に本当に喜んでいただける舞台になっている」と語っています。シリアスな役の印象に、コメディでの軽やかな持ち味が加わったといえそうです。
鹿賀丈史の若い頃まとめ
鹿賀丈史さんの若い頃の歩みを、要点でまとめます。
- 鹿賀丈史さんは1950年10月12日、石川県金沢市の生まれ
- 金沢の少年合唱団と高校の合唱部で歌い、高校の3年間で身長は160センチから178センチに伸びた
- 音大を目指す浪人中に劇団四季を受け、1972年に入団
- 芸名は浅利慶太さんの命名で、「鹿のように俊敏に、澄んだ目をしていろ」という思いが込められている
- 入団2年目の1973年、『ジーザス・クライスト・スーパースター』の主役でデビュー
- 劇団四季時代に住んだ高円寺の隣の部屋には、タモリさんがいた
- 1980年に劇団四季を退団し、映画『野獣死すべし』でスクリーンデビュー
- 『疑惑』『麻雀放浪記』『キャバレー』で日本アカデミー賞の優秀助演男優賞を3度受賞
- 1987年の『レ・ミゼラブル』を、舞台復帰のターニングポイントと語っている
- 1993年から『料理の鉄人』で美食アカデミーの主宰を務めた
声楽家を目指した金沢の少年は、舞台で主役をつかみ、映画とテレビで評価を固めていきました。若い頃の積み重ねが、その後の幅広い活躍につながっています。

