市村正親の若い頃は?一人っ子の鍵っ子から劇団四季のヘロデ役でデビューするまで

市村正親の若い頃は?一人っ子の鍵っ子から劇団四季のヘロデ役でデビューするまで

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ミュージカル『ミス・サイゴン』のエンジニア役や、『オペラ座の怪人』のファントム役で知られる市村正親さん。舞台の第一線で活躍してきた俳優ですが、若い頃にどんな少年時代を過ごし、どうやって役者になったのか、気になる方も多いのではないでしょうか。

市村正親さんの若い頃は、埼玉県で育った一人っ子の「鍵っ子」が高校時代に観た舞台で役者を志し、付き人修業を経て1973年に劇団四季のヘロデ役でデビューするまでの歩みです。

オーディションの第一志望は主役級ではなく「群衆」だったと本人が明かしていて、そこから劇団四季の看板俳優になるまでの道のりには、思わぬ展開がありました。

この記事では、公式プロフィールと本人の取材記事をもとに、生い立ちからデビュー、劇団四季時代、退団までの若い頃の歩みを整理します。

市村正親の若い頃|鍵っ子の少年時代から付き人修業まで

  • プロフィールと鍵っ子の少年時代
  • 高校の舞台と舞台芸術学院
  • 付き人修業で見た名優たち

まずは、生い立ちから役者を志したきっかけ、付き人として過ごした修業の日々までを見ていきます。

プロフィールと鍵っ子の少年時代

市村正親さんは1949年1月28日生まれ、埼玉県出身の俳優です。公式サイトのプロフィールには、西村晃さんの付き人を経て、1973年に劇団四季の『イエス・キリスト=スーパースター』でデビューしたと書かれています。

この作品は、のちに『ジーザス・クライスト=スーパースター』と呼ばれるようになった舞台です。若い頃の歩みを、先に一覧にしておきます。

生年月日・出身 1949年1月28日、埼玉県
少年時代 一人っ子で、両親は共稼ぎの「鍵っ子」
役者を志したきっかけ 高校時代に観た劇団民藝の『オットーと呼ばれる日本人』
進学先 舞台芸術学院
修業時代 俳優・西村晃さんの付き人を約3年間
デビュー 1973年、劇団四季『イエス・キリスト=スーパースター』のヘロデ役
劇団四季 1974年に正式入団、1990年に退団

出身は公式プロフィールで「埼玉県」とだけ記されています。市区町村名や出身高校の校名は、確認できた取材記事にも出てきません。ネット上には具体的な校名や地名を挙げる記事もありますが、公式プロフィールや確認できた取材記事では裏付けが取れなかったため、この記事では取り上げません。

ここからは、一人っ子として育った少年時代を見ていきます。『週刊朝日』のインタビューで、市村さんは当時をこう語っています。

「ウチは両親が共稼ぎで、一人っ子の僕はいわゆる“鍵っ子”。そのせいで、空想することが好きだったんでしょう。」

家で一人で過ごす時間が長く、頭の中で場面や人物を思い描く子供だったようです。同じインタビューでは、「テレビの向こう側に楽しそうな世界があるとは思っていた」とも話しています。

中学校では柔道部に入っていました。のちにドラマ『院内警察』の現場で「背負い投げはできますか?」と聞かれ、中学校の時に柔道部だったからと実演してみせたところ、周りに驚かれたそうです。

少年時代について詳しく語った取材は、確認できた範囲では多くありません。その中で、本人が空想好きの理由として挙げているのが、この鍵っ子の経験でした。一人で空想を広げる時間が、のちに役の人生を思い描く仕事へとつながっていったのかもしれません。

高校の舞台と舞台芸術学院

役者になろうと心を決めたのは、高校3年生の時に観た一本の舞台がきっかけでした。演劇部の顧問に連れられて、東京・大手町の日経ホールで観たのが、劇団民藝の『オットーと呼ばれる日本人』です。

木下順二さんが書いた戯曲で、主演は“新劇の神様”と呼ばれた滝沢修さん。ゾルゲ事件を題材にした作品で、市村さん本人は「スパイの話」と説明しています。高校生には難しい部分もありましたが、主人公の人生の激しさに強く心を動かされたといいます。

本人はその時の衝撃を、次のように語っています。

「たかだか2~3時間の間に、あんなに激しい人生が生きられるんだ、こういう仕事っていいなぁと心底思いました。」

「自分も、芝居の中で激しい人生を生きたい」という思いが、役者・市村正親の出発点になったのです。

リアルサウンドの取材では、当時の気持ちを「高校3年生なりに激しい人生を感じました。激しい人生を生きる役者という職業をいいなと思い、自分もなりたいなと」と説明しています。『週刊朝日』のインタビューでは、舞台から受けたものを「生身の人間の放出するエネルギーにやられた」と表現しています。テレビの向こう側の世界とは違い、目の前の舞台で生身の人間が演じる姿に心を奪われたということです。

婦人公論の取材でも、同じ舞台について「ここで僕の人生は決まってしまいました」と話しています。さらに、好きな仕事を選んだことについて「ずっと好きなことをやってきたので、どこかでくじけたと思ったこともありませんでしたね」とも語っています。

高校を出た市村さんは、俳優を養成する専門学校の舞台芸術学院に進みました。「舞芸(ブゲイ)」の名で知られた学校で、東京都豊島区にありました。

昭和23年に創立され、約1万5000人の卒業生を送り出した学院です。卒業生には、俳優の役所広司さんや演出家の渡辺えりさんもいます。2026年3月25日の卒業式をもって、77年の歴史に幕を閉じました。

市村さんは、舞芸に進み、そのときに西村晃さんと出会ったと話しています。この出会いが、役者への最初の一歩になりました。

付き人修業で見た名優たち

市村さんは舞台芸術学院で出会った西村晃さんの付き人を、3年間務めました。西村さんは『水戸黄門』で知られる俳優です。付き人は、師匠の身の回りの世話をしながら現場に同行する立場で、俳優としてデビューする前の修業期間でした。

本人は付き人時代を「石の上にも3年」になぞらえ、「自分の中で付き人論ができてくるんです」と語っています。その中身は、「どうしたって師匠が第一、付き人の自分は第二の存在」というものでした。付き人を卒業する時には、西村さんに「自分を第一に考えたくなりました」と伝えたところ、快く認めてもらえたそうです。

付き人の3年間は、ただ師匠に付き添うだけの時間ではありませんでした。マイナビニュースの取材で、市村さんは「西村さんの付き人をやったということだけじゃなくて、西村さんがやった仕事を間近で見られたことが大きいです」と話しています。

最初の1カ月は、三木のり平さんと古今亭志ん朝師匠による『文七元結』を見続け、次の1カ月は『雁の寺』の現場にいました。『雁の寺』では、演出の木村光一さんが、水上勉さんと一緒に、市村さんにちょい役の場面を作ってくれたそうです。

この時の縁は、後年にも続きます。のちに新橋演舞場で『越前竹人形』に出演した際、訪ねてきた水上さんから「あの頃のことよう覚えてまっせ。あんさんにちゃんとセリフ作ってあげたやろ」と声をかけられたといいます。劇団四季に入ってからのことを話すと、水上さんは「洋行帰りやな」と返したそうです。

ほかにも、森繁久彌さんのテレビや勝新太郎さんの『座頭市』を目の前で見ていました。歌舞伎座の『反逆児』では、萬屋錦之介さんと十七代目中村勘三郎さんの舞台を1カ月、袖から見ていたといいます。

名優たちの実演を肌で感じた付き人の3年間を、市村さんは「僕の大きな財産」と振り返っています。

一流の俳優たちを近くで見て、特に染み込んだことは何かと聞かれると、市村さんは「愚痴を言わないこと」と答えています。一流の人たちは芝居の話しかしておらず、よりよい芝居のために「1歩でも1ミリでも前に行こう」と考えていたそうです。

市村正親の若い頃と劇団四季時代|デビューから退団まで

  • 第1志望は「群衆」だった
  • 鹿賀丈史と浅利慶太の言葉
  • 看板俳優の時代から退団へ
  • 市村正親の若い頃まとめ

続いて、1973年のデビューから、劇団四季の看板俳優になり、退団するまでの歩みを見ていきます。

第1志望は「群衆」だった

付き人を卒業するタイミングで、バレエの先生から劇団四季のオーディションに誘われました。もともと劇団四季に入りたいと考えていたわけではなく、対談相手の中山秀征さんに「四季に入りたかったわけではなかった」と言われて、「そうだね」と笑って認めています。

受けたのは、イエス・キリストの最後の7日間を描いた『イエス・キリスト=スーパースター』のオーディションです。選んだ役柄の第一志望は「群衆」、第二志望は「使徒」でした。どちらも大勢の中の1人という役です。

大きな役を狙わなかった理由を、本人はこう説明しています。「ユダやイエスなんて、1つしか枠がないんだから受かるわけがない。落ちてしまったら、レコードや資料を買ったお金が戻ってこないでしょ」。付き人時代に、ちょい役でも作品に出ていれば出演料をもらえることを知っていたため、第一志望は群衆にしたといいます。

「群衆」を第一志望に受けたオーディションで、最終的に「ヘロデ」という役をもらい、1973年にデビューしました。

著書『役者ほど素敵な商売はない』(新潮社)の目次にも、「第1志望は『群衆』、第2志望は『使徒』」という章題が並んでいます。本人はこの流れを、「劇団四季のオーディションを受けたら受かって、そこからトントン拍子に来ちゃいました」と振り返っています。

デビュー作では、のちに何度も舞台で共演することになる鹿賀丈史さんがイエス役を務めました。実は、市村さんにもイエス役の話が出たことがあったそうです。「一時期は、『市村にイエス(主役)をやらせようか』という話も出たんだって。でも僕は劇団四季に所属していない外部の人間だから、話は進まなかったみたい」と明かしています。

それでも本人は、「僕はそこでイエスをやらなくてよかったと思っているんです」と言います。理由は「難しい役だから。まず僕には出ないキー」で、「僕の場合、若いうちから大きな役をやっていたら、ダメになっていたと思うんだよね」とも語っています。付き人時代に現場を見てきた経験が、役柄の選び方に表れていました。

鹿賀丈史と浅利慶太の言葉

デビュー後、鹿賀さんと比べられる場面は続きました。劇団四季の創設者の一人である浅利慶太さんからは、「鹿賀がステーキなら、お前はクレソンだ」と言われたそうです。

市村さんは当時を「当時は鹿賀丈史が正義。だいたい大きい役はあっち」と振り返りつつ、「でも、ステーキにクレソンはなくてはならない。太陽があって月がある」と前向きに受け止めています。

市村さんは自分の芝居を「月的な演技」と表現し、主役路線の鹿賀さんとは違う持ち味があると考えています。

二人は、のちに同じ役をダブルキャストで演じる間柄になりました。ミュージカル『生きる』の取材で、市村さんは「(鹿賀さんは)昔から主役路線を走っていて、僕はその周りの役が多かった。それが一つの役をやり合えるようになったわけだから、僕も頑張ったなと」と話しています。

これに対して鹿賀さんは、「お互いに自分の歩む道があって」「市っちゃんの舞台に掛ける情熱は、他の人には真似が出来ないですよ」と返しました。別の取材で市村さんは、「お互い20代前半のときから知っているということは、ふたりの強みだと思いますよ」とも語っています。

浅利さんの訃報が伝わった2018年7月18日、市村さんは会見を開き、「ゼロから教育してもらった」と感謝を述べました。「役者は女優の斜め後ろに立て」「役者は役を必死に生きれば役の仮面が透けて役者の顔が見えてくる」といった訓示のほか、「他人の時計をのぞくな」とよく注意されたそうです。

配役などで納得がいかなくても、成長の速さは人それぞれだという意味の言葉です。主役路線の鹿賀さんと比べられがちだった若手時代の市村さんにも、通じる教えといえます。

もう一つ、印象に残っている言葉として挙げたのが、演技は蓮の上の水玉のようなものだ、という教えです。固まっていなくて、同じ形は二度とないという意味で、言葉を聞いたのは若手のころでも、意味が分かったのはそれから10年ほど後だったと話しています。

その意味が分かった瞬間を、市村さんは「名優・市村が誕生したのでしょうね」と笑って振り返りました。

「お酒も覚えさせてもらった」と話すように、浅利さんとは仕事の場だけでなく、食事やゴルフなど公私で世話になった間柄でした。

看板俳優の時代から退団へ

デビュー後、市村さんには次々と声がかかるようになりました。『ウエストサイド物語』のベルナルド役の話が来たとき、劇団からは「立て続けに君の名前を挙げると劇団の内部から批判が出るから、劇団員にならないか?」と言われたそうです。

本人は「僕から『劇団に入りたい』って言ったわけじゃないの」と笑っていますが、こうして劇団員としての道が開けました。劇団四季には、デビューの翌1974年に正式に入団したと、取材記事の経歴に書かれています。役が続いた理由を、本人は「日々の評価がよかったから、次から次へと役をいただけるわけです」と説明しています。

公式サイトの舞台出演歴には、劇団四季の在団中に初めて出演した年ごとに作品が並んでいます。1974年は『ウェストサイド物語』と『キューちゃんの鐘』、1975年は『エクウス』、1979年は『コーラスライン』、1980年は『エレファントマン』、1984年は『キャッツ』、1988年は『オペラ座の怪人』という具合です。

デビューから7年後の1980年に『エレファントマン』でゴールデン・アロー賞演劇賞を受け、1983年には『エクウス』の再演で芸術選奨新人賞を受けました。

『エクウス』は、1975年に劇団四季が日本で初めて上演した作品で、公式サイトでも市村さんの初出演は1975年と記されています。取材記事の紹介文には、劇団四季の1980年代を代表する看板ミュージカルスターとして活躍した、とあります。

1988年には『オペラ座の怪人』に出演し、主役の怪人を演じました。翌1989年には『第40回NHK紅白歌合戦』に出場し、『オペラ座の怪人』の曲を歌ったと紹介されています。

しかし1990年、市村さんは劇団四季を退団します。取材記事の経歴にも「90年に退団した」と記されており、在団は1973年から1990年まででした。退団の理由については、自伝『役者ほど素敵な商売はない』の紹介文に「劇団四季退団の真相」という言葉があるものの、本の中身を確認できていないため、この記事では触れません。

退団から2年後の1992年、『ミス・サイゴン』のエンジニア役で芸術祭賞と菊田一夫演劇大賞を受けました。

エンジニアは、フランス人とベトナム人の混血のキャバレー経営者という役です。退団後は、ミュージカルだけでなくストレートプレイや一人芝居、映像の世界にも活躍の場を広げていきました。

市村正親の若い頃まとめ

市村正親さんの若い頃について、確認できたことをまとめます。

  • 1949年1月28日生まれ、埼玉県出身。市区町村名や出身高校の校名は確認できなかった
  • 一人っ子で、両親は共稼ぎの「鍵っ子」。空想するのが好きな少年だった
  • 中学校では柔道部に入っていた
  • 高校3年生の時に観た『オットーと呼ばれる日本人』で役者を志した
  • 舞台芸術学院に進み、俳優・西村晃さんの付き人を3年間務めた
  • 付き人時代に名優たちの実演を間近で見て、「愚痴を言わないこと」を学んだ
  • 劇団四季のオーディションを「群衆」志望で受け、1973年にヘロデ役でデビュー
  • 鹿賀丈史さんと比べられながらも、自分の芝居を「月的な演技」と受け止めた
  • 1980年にゴールデン・アロー賞演劇賞、1983年に芸術選奨新人賞を受賞
  • 1990年に劇団四季を退団し、1992年に『ミス・サイゴン』で芸術祭賞などを受賞

大きな役を狙わず、目の前の仕事を一つずつ積み重ねた若い頃の歩みが、舞台俳優・市村正親の土台をつくりました。これからの活躍にも注目です。

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