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Kis-My-Ft2のメンバーで、ダンスや絵の才能でも知られる千賀健永さん。「父親はどんな人なのか」「どんな仕事をしているのか」が気になる方も多いのではないでしょうか。
千賀健永さんの父親は一般の方で名前や顔写真は公表されていませんが、千賀さん本人が雑誌のインタビューで「父がデザイナーで」と語っています。
幼い頃は父親と母親から「ほかのコとちがうことやりなさい」と言われて育ち、上京後は父親と離れて暮らした時期もありました。
この記事では、千賀健永さんの父親について、本人や母親の言葉、番組での発言をもとに整理します。
目次
千賀健永の父親はどんな人?職業と子育ての方針
- 父親の職業と基本情報
- 卒業式で言いかけた父と同じ夢
- 口癖は「ほかのコとちがうこと」
- 毎日6時間のダンス練習と愛のムチ
まずは、父親の仕事と、千賀さんがどう育てられたのかを見ていきます。
父親の職業と基本情報
千賀健永さんは1991年3月23日生まれ、愛知県出身です。2003年4月に事務所へ入所し、2011年8月にKis-My-Ft2としてCDデビューしました。家族は父親、母親、千賀さん、弟の4人で、千賀さん自身がテレビ番組で「4人で暮らしたいっていうのが夢だった」と話しています。
父親について分かっていることを、先に一覧にしておきます。
| 立場 | 一般の方(名前・顔写真は公表されていない) |
| 仕事 | 本人が「父がデザイナーで」と発言。両親が名古屋で焼き肉店を経営していたとの報道もある |
| 会社名 | 公表されていない |
| 子育ての方針 | 「ほかのコとちがうことやりなさい」 |
| 千賀さんの上京のとき | 弟と名古屋に残った |
| その後 | 千賀さんが買った家に呼び寄せられ、家族4人で暮らした |
父親は芸能活動をしていない一般の方です。父親本人が取材に応じた記事は見つからず、分かっているのは千賀さんと母親が語った内容に限られます。
仕事について千賀さんが自分の言葉で語ったのは、雑誌『Myojo』の「10000字ロングインタビュー」でした。2013年1月号に掲載されたもので、小学生の頃の将来の夢を振り返る中で「父がデザイナーで、絵を描くのも好きだったんで」と話しています。どんな分野のデザイナーなのか、会社に勤めていたのか独立していたのかといった詳しいことは、このインタビューでは語られていません。
一方、2023年5月16日放送の『徹子の部屋』を伝えた記事では、「両親は当時、名古屋で焼き肉店を経営していた」と紹介されました。千賀さんが事務所に入り、母親と上京した頃の話です。
つまり、本人の言葉では「デザイナー」、番組を伝えた報道では「焼き肉店の経営」と、父親の仕事は2通り伝えられているのです。
2つの仕事がどういう関係だったのか、時期が違うのか、両方を同時にしていたのかは、本人も母親も説明していません。母親は週刊誌の取材で「夫も私も名古屋で仕事していたし」と話しており、千賀さんも「両親が共働きだった」と振り返っています。夫婦そろって名古屋で働いていたことは確かなようです。
インターネット上には、父親の会社や肩書きを具体的に書いた記事も見られます。しかし、会社名や役職については、本人の発言や大手の報道では確認できませんでした。この記事では、本人や家族が語った範囲にとどめてお伝えします。
卒業式で言いかけた父と同じ夢
父親の仕事は、幼い千賀さんの将来の夢にもつながっていました。背景にあったのは、絵を描くことが大好きだったという千賀さんの子ども時代です。
父親も母親も働いていたため、千賀さんは祖母と過ごす時間が長かったといいます。「両親が共働きだったんで、おばあちゃんといっしょにいることが多くて」と話し、毎日家に帰ると祖母の絵を描いてプレゼントしていたそうです。祖母はその絵を部屋に飾ってくれ、「だから絵を描くのが大好きになったんです」と振り返りました。
そんな千賀さんが「ひとつ大きな転機」として挙げているのが、小学校の卒業式です。千賀さんの小学校では、卒業証書を受け取るときに、みんなのほうを向いて自分の夢を発表していました。リハーサルでは「僕は将来デザイナーになりたいです」と言ったと明かしています。
小学校の卒業式のリハーサルで千賀さんが口にした夢は、父親と同じ「デザイナー」でした。
理由は「父がデザイナーで、絵を描くのも好きだったんで」というものです。第2候補は、大好きな祖母とずっと一緒にいられる介護福祉士でした。マイケル・ジャクソンのようなアーティストへの憧れもありましたが、現実味がないと感じて、心の奥にしまっていたそうです。
ところが、翌日の本番で思わぬことが起こります。「僕の夢は…」まで言ったところで、「デザイナー」という言葉がなぜか出てこなかったというのです。
次の瞬間に口から出たのは「みんなに夢や希望を与えるアーティストになりたいです!」という言葉でした。千賀さんは「あれ!? 俺、言っちゃった!!」と思ったものの、すごくスッキリして夢が明確になったと振り返っています。
父親の背中を見て「デザイナー」を思い描いていた少年が、自分の本当の夢に気づいた瞬間でした。とはいえ、絵を描くことへの愛着は大人になっても変わっていません。
母親は2023年の取材で「昔から絵を描くのが大好きだったので」と話し、千賀さんが個展を開きたがっていることを明かしました。その後、千賀さんは実際に自分の個展を開きました。
2024年6月に先輩の動画チャンネルへ出演した際には、絵を見て涙を流した祖母の姿から「人の記憶に残るものを作りたいって思った」とも語りました。デザイナーの父親と、絵を喜んでくれる祖母に囲まれて育ったことが、ものづくりへの関心につながったのかもしれません。
口癖は「ほかのコとちがうこと」
千賀さんの両親には、はっきりした子育ての方針がありました。千賀さんはダンスを始めたきっかけについて、「物心ついたときにはやらされてましたね。強制だったと思います」と話しています。
母親も、千賀さんが幼稚園の頃からダンスを習っていたと明かしました。そして千賀さんが続けて語ったのが、両親の口癖です。「両親が、やたら目立ったことをさせたがったんですよ」と振り返り、いつも同じ言葉をかけられていたと語りました。
父親と母親が幼い千賀さんに繰り返し伝えていたのは、「ほかのコとちがうことやりなさい」という言葉でした。
その方針は、身の回りの物にも表れていました。千賀さんは「僕はみんなと同じ自転車がいいのに、すごく変わった自転車を買ってきたり」と話しています。みんなが履いているヒーローものの靴が欲しかったのに、買ってもらえるのは誰も履いていないダンス用の靴だったそうです。
当時の千賀さんは「みんなといっしょがよかった」と感じていて、恥ずかしい思いもしたといいます。ダンスを習っているのも、周りでは自分だけでした。
母親によると、幼い頃の千賀さんは「あんまり自分の意見を言う子じゃなかった」そうです。目立つことを望んでいたのは、本人よりも両親のほうだったことがうかがえます。
ダンスへの気持ちが変わったのは、小学3年生のときでした。通っていたスクールでマイケル・ジャクソンのダンスに出会い、「それまで、半分強制みたいにダンスをやってたけど、一瞬でダンスが好きになりましたね」と語っています。
それまではダンサーを目指していましたが、この出会いから「エンターテイナーになりたい」と思うようになったそうです。両親が用意した環境が、ここで初めて自分のものになったといえそうです。
大人になった千賀さんは、当時を「今思えば、すごくいい環境だったんですけど」と受け止めています。人と違うことを恐れない姿勢は、ダンスや絵、振り付けといった表現の仕事に生かされていきました。父親が「デザイナー」という作る側の仕事をしていたことと、重なる部分がありそうです。
毎日6時間のダンス練習と愛のムチ
両親の教育は、ダンスの練習でも徹底していました。千賀さんはいくつかのダンススクールに通っていて、その中には昇格テストのあるスクールもあったそうです。
「親にはいつも“いちばんを取りなさい”、“一発で昇格しなさい”って言われてました。それが、すごいプレッシャーで」と千賀さんは語っています。テストの前には、家の鏡の前で毎日6時間ほど練習していました。
練習を見ていたのは両親です。「両親に、“そこ、ちがう!”とか言われながら」踊り、「もう泣きながら踊ってましたね」と振り返っています。
それでも辞めなかった理由を、千賀さんは「基本、負けず嫌いだったんで」と説明しました。聞き手から父親と母親を嫌いにならなかったのかと聞かれると、「ならなかったです」と答えています。ダンスが嫌だと思ったことはあっても、「なんとなく愛のムチなんだってわかったし」と話していました。
つらい練習を続けられたのは、母親と父親によろこんでもらいたいという気持ちが昔から強かったからだと、千賀さんは振り返っています。
昇格テストで1位を取れば両親が喜ぶという「ゴール」が見えていたから頑張れた、というのが千賀さんの説明です。厳しさの中にも、親子の間に信頼があったことが伝わってきます。ダンスコンテストで優勝したことを祖母に報告し、「よかったね」と言ってもらえるのがうれしかったとも話していました。
努力は結果にもつながりました。小学5年生のときには、年齢制限のない全国大会にマイケル・ジャクソンのダンスで出場し、最年少で入賞しています。幼稚園の頃から続けてきた練習が、全国の舞台で実を結びました。
その大会のビデオが、のちに事務所へ送られることになります。『徹子の部屋』の番組紹介でも、幼少期から厳しいレッスンを受け、母親から「一番を取りなさい」と言われて技術を磨いたと伝えられています。父親と母親がそろって向き合った日々が、千賀さんのダンスの土台になったといえそうです。
千賀健永の父親と離れた日々|上京から家族4人の家まで
- 上京に父親は反対した?
- 父親と弟は名古屋に残った
- 家族で住む家を恵比寿に購入
- 母親と弟はどんな人?
- 千賀健永の父親まとめ
ここからは、上京をめぐる父親の反応と、離れて暮らした日々、そして家族が再びそろうまでを見ていきます。
上京に父親は反対した?
事務所に応募したきっかけは、小学生のときに見た嵐のコンサートでした。母親によると、履歴書を送っても1年半ほどは反応がなく、もう一度ビデオと履歴書を送ったところ、名古屋の会場で開かれたオーディションに呼ばれて合格したそうです。
千賀さんは2003年4月に事務所へ入所しました。入所後もしばらくは名古屋に住んでいて、「何か仕事が入って呼ばれるたびに、名古屋から上京してましたね」と振り返っています。
転機は中学1年の冬です。当時の事務所の社長から「東京に出てきたらいいのに」という趣旨の言葉をかけられ、千賀さんは東京に行けばデビューできると早とちりしたそうです。
母親に相談したところ、「行ったほうがいい」と即決だったといいます。では、父親はどうだったのでしょうか。
母親の千賀のり子さんは、2023年の週刊誌のインタビューで当時をこう振り返りました。「夫も私も名古屋で仕事していたし、デビューできるかどうかもわからないですから、上京は“賭け”ですよね。友人や主人には大反対されました」。
夫婦が名古屋と東京に分かれ、しかもデビューできる保証はどこにもありません。周りからは「デビューなんかできるわけないでしょ」とさんざん言われたそうです。父親が反対したのも、家族の暮らしを考えれば無理のない反応だったといえそうです。
それでも母親は「この子の夢に賭けたいな」と思い、千賀さん本人が行きたいと言い続けたことから上京を決めました。
一方の千賀さんは、2023年5月放送の『徹子の部屋』で父親についてこう語りました。「僕一人で東京には行かせられないので。父は少しさみしい気持ちはあったと聞いてますが、僕の夢のために背中を押してくれました」。
母親によると父親は上京に大反対でしたが、千賀さん本人は「僕の夢のために背中を押してくれました」と語っています。
2人の話を並べると、反対する気持ちやさみしさを抱えながらも、最後は息子を送り出した父親の姿が見えてきます。
父親と弟は名古屋に残った
上京したのは、千賀さんと母親の2人だけでした。父親と弟は名古屋に残り、家族は2か所に分かれて暮らすことになります。
実は、弟も一緒に上京する予定だったそうです。母親は「本当は弟も一緒に来る予定でしたが、友達の開いてくれた送別会に感激して友人と別れたくなくなったようで、主人と名古屋に残りました(笑)」と明かしています。
千賀さんにも、地元の友達との別れがありました。見送りに来た友達は「健永、がんばれ!」と書かれたTシャツまで作ってくれたといいます。それを見て「絶対、デビューしよう」と心に決めたそうです。
ところが、上京すればすぐデビューできるというのは千賀さんの勘違いでした。本人も「東京に来たはいいもののって感じでした(笑)」と振り返っています。
父親は名古屋で弟と暮らし、母親は東京で千賀さんを支える。そんな生活は、短い期間では終わりませんでした。
父親と弟のいない東京で、母親と2人の暮らしが続きました。引っ越した先は、メンバーの宮田俊哉さんと同じ電車を使う場所だったそうです。宮田さんはレッスンや仕事の帰りに「いっしょに帰ろうよ」と声をかけ、いつも一緒に帰ってくれたと千賀さんは話しています。
2005年にはKis-My-Ft2が結成されましたが、CDデビューはそこからさらに約6年後のことでした。入所から数えると、約8年かかっています。
『徹子の部屋』の番組紹介では、千賀さんが「デビューまでの8年間を支えてくれた両親」へ感謝の思いを明かすと伝えられました。離れて暮らしていても、父親は母親とともに息子を支える側にいたことが分かります。
東京での生活は、楽しいことばかりではなかったようです。千賀さんは上京したばかりの頃、周りから無視されてさびしい思いをしたとも語っています。それでも「負けたくなかったから続けてこれましたね」と振り返りました。
幼い頃に両親のもとで身につけた負けず嫌いが、父親と離れた東京での日々でも支えになったようです。
家族で住む家を恵比寿に購入
離れて暮らす家族を、もう一度ひとつにしたのは千賀さん自身でした。『徹子の部屋』で黒柳徹子さんから親孝行について聞かれると、次のように答えています。
「父と弟が名古屋、僕と母が東京に暮らしていたので、(父親と弟を)東京に呼んで、家族で住む家を買いましたね。デビューして2年目ぐらいで。やっと家族が一つになれて安心しました」。
千賀さんはCDデビューから2年目ぐらいで家族で住む家を買い、名古屋にいた父親と弟を東京に呼び寄せました。
家族4人が同じ家で暮らすのは、千賀さんが中学1年の冬に名古屋を離れて以来のことでした。上京から長い年月がたっていて、「やっと」という一言に、家族がそろう日を待ち続けた気持ちがにじんでいます。
2024年9月26日放送の『ダウンタウンDX』では、この家が恵比寿の一軒家だったことも明かしました。番組を伝えた記事は、購入を放送の10年ほど前のことと紹介しています。
千賀さんは「お父さんと弟は名古屋に残っていて。けどずっと一緒に住みたかったので」と理由を語り、「4人で暮らしたいっていうのが夢だった」と続けました。離れて暮らす間、ずっと抱いていた願いだったことが分かります。
司会の浜田雅功さんも、家族のために家を買ったという話に「すごいな」と感心していました。
ただ、この話には続きがありました。家を買ったことは公にしていなかったものの、先輩の中居正広さんにこっそり話したところ、歌番組の生放送で「千賀お前、恵比寿に家買ったもんな!」と言われてしまったそうです。
その後の年始、ファンが家を探しに来て、寝ていると外から名前を呼ぶ声が聞こえたといいます。千賀さんは「それがあってから引っ越しました」と明かしました。
思わぬ結末にはなりましたが、家族4人で暮らすという夢を自分の力でかなえたことに変わりはありません。上京に反対した父親にとっても、息子が用意した家で再び家族がそろったことは、感慨深い出来事だったのではないでしょうか。
母親と弟はどんな人?
最後に、父親とともに千賀さんを支えてきた母親と弟についても、報じられている範囲で紹介します。
母親は、自身の名前で美容の仕事に取り組んできた千賀のり子さんです。名古屋出身で、若い頃は良いエステがあると新幹線で東京まで通うほど美容が好きだったと話しています。2022年3月には東京・渋谷に美容サロンを開き、2023年には週刊誌のインタビューに応じました。
千賀さんが事務所に入るきっかけを作ったのも母親でした。知人の縁で嵐のコンサートを見に行ったことが、千賀さんがこの世界を目指す出発点になりました。千賀さんは2025年3月に公開した動画で、芸能界を目指した理由を聞かれて「母の想いが強かった」と答えています。
入所前のオーディションでは、日時を当日になって知り、母親と2人で会場まで走ったそうです。遅れて到着した会場で、母親が「うちのコも呼ばれてるんです!」と掛け合い、受けさせてもらえることになったと千賀さんは語っています。
母親が幼い頃から伝え続けてきた言葉もあります。「与えられた事」「求められる事」に対してきっちり結果を出していけば、いつかやりたいことができるようになる、という教えです。母親によると、グループが10周年を迎えた頃から、千賀さんは「仕事が楽しい!」と心の底から言えるようになったといいます。
千賀さんの仕事ぶりについては「器用貧乏みたいな感じでそつなく何でもやっちゃうところが、いいのか悪いのか心配ですね」と、母親らしい目線で話していました。千賀さんが「キスマイで世界を目指したい」と語っていたことも明かしています。
弟については、2021年3月に精肉店を開いたと週刊誌が報じています。2024年には、千賀さんの主演ドラマの打ち上げに弟が高級肉を持参したことも伝えられました。幼い頃は千賀さんと一緒にダンススクールに通っていたそうです。
家族がそれぞれの道を歩みながら、千賀さんの活動を見守ってきたことが分かります。
千賀健永の父親まとめ
千賀健永さんの父親について、分かっていることをまとめます。
- 父親は一般の方で、名前や顔写真、会社名は公表されていない
- 千賀さんは雑誌のインタビューで「父がデザイナーで」と語った
- 両親は名古屋で焼き肉店を経営していたと、番組を伝えた報道で紹介された
- 両親の口癖は「ほかのコとちがうことやりなさい」だった
- 昇格テストの前は、両親に見てもらいながら毎日6時間ほどダンスを練習した
- 上京には父親が大反対したと母親が明かし、千賀さんは「背中を押してくれました」と語った
- 父親と弟は名古屋に残り、千賀さんと母親が東京で暮らした
- CDデビューから2年目ぐらいで家を買い、家族4人での暮らしをかなえた
厳しく育てながらも、最後は夢を応援してくれた父親の存在が、千賀健永さんの土台になっています。これからの活躍にも注目です。

